昨年8/27に書いた「生まれ変わりについての考え方(昨日の記事からのスピンオフw)」の記事中に
『魂って「水」なんですよね』ということを書いていますが、
その続編というかちょっと思うことを書いてみようと思います。
前の記事とつながりのある内容となるかどうか分かりませんが、
とりあえず前の記事を読んでもらった方がいいかもしれませんね(^^ゞ
では本記事の本題へ
一説によれば、人は親を選んで生まれてくるらしい。
それが本当なら、自分の(魂の)成長のために最も適した環境や肉体を得るためなんだろうね。
ということは、生まれる前から意思があり・・・って、それを前提にしてるので割愛w
生まれる前の状態というのは、何にでもなれるし、どこにでも行ける存在なんだろうな。
なんの制約もないから成長の機会も限られる状態。
だから制約のある肉体(コップ)に、魂(水)を閉じ込め生活することによって成長の機会を得る。
どんな成長を遂げるかは、人それぞれの課題次第なのかもしれないけど、
究極的には『悟り』の境地に至ることなのかな!?とも思う。
言葉を換えれば、「神と一体化する」でもいいだろうし、「愛を体現する」でもいいのだろう。
そんなことを日常的になんとはなく思っている訳だけど、
それってひょっとしてこういうこと!! という閃きというかイメージが湧いてきました。
(イメージが湧いただけで、全然その境地には至ってないですけどね(^^ゞ)
以前、ヨガを試みている時に身体感覚がなくなったことがあります。
意識はしっかりしているのに、身体というものが知覚できない。。。
手はどこ?足はどこ??? みたいな感覚です。
それでもこの感覚では、まだまだ覚醒した訳ではないよね。
だってまだ自分の身体を探そうとする意識だし、自分にベクトルが向いているから。
もっと自分の身体から離脱したところに意識を向けることが次なるステップなのかな!?
ちょっと分かりづらいですね(^^ゞ
例えば、スポーツ観戦中や映画鑑賞中に同じ空間にいる人同士で分かり合える瞬間ってありますよね。
ごひいきのチームが勝って、知らない隣の人とハイタッチしたり、
悲しい場面で隣の席同士でもらい泣きしたり。
この時の意識は、その空間を包み込む雰囲気と一体化してるとも言えますよね。
そういう感覚を「自分の身体から離脱したところに意識を向けた」状態じゃないかと思うんです。
もっとも今の例では、外からの影響(試合結果や映画のストーリーなど)によってもたらされていますが、
自分の意思によって、「自分の身体から離脱したところに意識を存在させる」
ことができる状態が「悟り」に近いんじゃないかと、フッと思ったんです。
目の前の人と同一化する(相手の立場で考える・・・ということではなく。)とか、
過去や未来に意識を向ける!とか、ある意味、超人的な能力(笑)
でも人の本質が「魂」なのなら、けっして不可能なことではないような気もします。
顕在意識から、時間や空間の概念のない潜在意識へと潜り、
全ての人とつながっていると言われる普遍意識まで辿り着ければ、
あらゆる人、あらゆる空間や時間へのアクセスは可能になると思うのです。
それは生まれる前の状態なら、いとも容易く出来てしまうのでしょうけど、
魂を肉体に閉じ込めている今生において出来るようになることが
『悟り』なのかな!?と思ったりした訳です。
ちょっと長々と綴りましたので、続きはまた今度(^^)/~~~